ささやかな日常の記録

現在と過去のエンタメなど

ドラマの神回について

お盆の送り日は雨。北に停滞する前線に向かって、暖かい湿った空気が吹き込んでいる。その影響で昼過ぎから激しい雨が降り始めた。それと同時に久々の頭痛が始まってしまった。そろそろ夏の疲れが出てくる頃だ。

そんな日の朝ドラ「半分、青い。」は神回との触れ込みだった。神週における神回だから、このドラマにとってはピークの回ということになる。中村雅俊演じるおじいちゃんが88歳で逝ってしまった。ただ、それだけの回だった。神回というより仏回といったほうが良い。最期の一日を丁寧に描いていたが、ナレがすべてを語り過ぎて余韻もなにもない。

朝ドラでも「ゲゲゲの女房」で風間杜夫演ずるイトツの最期の余韻は素晴らしかった。2010年9月6日からの一週間はまさに神週だった。「人生は活動写真のように」というサブタイトルも印象的だ。その少し前に新盆を迎えたばかりだったということもある。

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義母と娘のブルース」を見て、葬儀の日のことを思い出した。非日常を共有することで深まる絆が実に感動的だった。その前に日常を丁寧に描いてきたからこそ、見る人の感情も大きく揺さぶられる。これこそ神回に相応しい。

ドラマを作るクリエーターは創造主としての神みたいなものである。視聴者はその神によって作られた奇跡を見て感動する。これこそ正しい神回といえる。

逆にクリエーターがこれは神回だと言うことは、信者に信仰を強要するみたいなものだ。これを見て感動しないと救われないぞと言うに等しい。視聴者を見下している感じがする。

そもそも自分には確たる信仰がないから神回という言い方には抵抗がある。カルト・ムービーというのもそうだ。それでもニュアンスが伝わりやすいから使っているに過ぎない。

自分にとって好きな映画やドラマは録画してまで、もう一度見たいかどうかが基準になる。それを神映画や神ドラマと言うのには少々抵抗がある。my favorite、つまり「お気に入り」というのが一番しっくりくる。私にとって愛すべき作品というのなら、アップルに倣ってi映画とかiドラマでも良い。でも読み難いので、愛映画と愛ドラマと書くことにする。自分にとって愛ドラマとは、全話録画したドラマであり、そんなに多くはない。これまで神回と言っていたのは、その回が素晴らしくて録画を残したということである。これはけっこうある。「半分、青い。」にもある。

残念ながら今クールには愛ドラマはない。今年になってからでも「アンナチュラル」と「anone」だけである。朝ドラでは「あまちゃん」「カーネーション」「ゲゲゲの女房」「ちりとてちん」が愛ドラマである。

野島伸司のドラマでは「プラトニック」がそうだった。「高嶺の花」で華丸が演じているような役を堂本剛が演じていた。その堂本の心臓を永野芽郁に移植しようとするストーリー。ここでの永野の演技は本当に素晴らしかった。脇役の野村麻純も魅力的だった。前回の「透明なゆりかご」では修羅場を目にして看護師を辞めてしまったが、これで終わりだったら少しさみしい。

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前回の「高嶺の花」では芳根京子峯田和伸が対峙するシーンが良かった。愛回まではいかないが、愛シーンになっており、これはもう無数にある。「ニューシネマ・パラダイス」のように、まとめて見たら感動的かもしれない。