ささやかな日常の記録

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ドラマ「透明なゆりかご」第6話

これまで通奏低音のように響いていた事象が表面化したような回だった。産婦人科の病院において脚光を浴びることはないが、なくてはならない影の存在。このドラマは初回から、そのことをさりげなく描き続けてきた。そして今回、それを正面から扱った。

登場するのはアオイ(清原果耶)と同じ17歳のヤンキー風少女のハルミ(モトーラ世理奈)。

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一目見てアオイが避けたくなるような存在だ。前回の少年と同じように、この少女との道行が楽しい。今回は山道を二人で歩いて登っていく。目的地は老夫婦(イッセー尾形角替和枝)がひっそりと営む産院(?)。格安の料金で処置してくれる、一種の駆け込み寺みたいな処なのだろう。アオイにとっては、そこに行く人も、居る人も許容することができない。命をおろそかにしているように感じてしまう。

しかし、実際にその現実に触れることによって、少しずつ認識が変わっていく。ハルミを見る目が変わっていくアオイが愛しい。ヤンキー少女にも老夫婦にも事情がある。決して好きでやっているわけではないのだ。それぞれの苦い過去が切ない。それだけに3度目の再会を願うアオイの妄想が暖かい。

その頃、病院ではある夫婦(西原亜希・村上新悟)が険悪なムードになっていた。妊娠を継続することができなくなって相手に不信感を持ってしまう。産まなければならないという義務感と産みたいという希望はまるで違う。その様子を見て看護師の紗也子(水川あさみ)も迷う。女性にとって母になるという決断は難しい。それは新たな命が始まる瞬間でもある。だからこそ、一度そうと決めた女性は強い存在となる。

海沿いの道で語り合うアオイと紗也子のシーンが印象的だ。アオイが紗也子にどら焼きを手渡して、ハルミの言葉を伝える。

わたしもバカだけど赤ちゃんもバカだ

ちゃんと産んでもらえる人のとこに行けばいいのにね

 

でもどんなに悲しい結果になったとしても赤ちゃは何かメッセージを残してくれていると思うんです

たとえ来る人を間違えちゃってたとしても

 幼い頃に読んだ手塚治虫の「リボンの騎士」を思い出した。リアルな現実にファンタジーが優しく寄り添う。そのバランスが絶妙だ。

それにしてもアオイの成長ぶりがめざましい。初回で見せた透明なカプセルへの語りかけが今回も描かれた。カーテン越しの陽光はアオイの純粋な透明感を増幅させる。それはイコール清原果耶の透明感に重なる。

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すっと相手の心に入っていく透明な光。それはアオイの相手に寄り添いたいという気持ちであり、想像の源でもある。その独特な視点が素晴らしい。

ストーリーとしては少々物足りなかったが、今回もキャストは良かった。モトーラ世理奈のソバカスのなんてチャーミングなことか。西原亜希は「高嶺の花」でも妊婦を演じているが、まるで存在感が違う。村上新悟は現代劇で初めて見ることができたが悪くない。イッセー尾形角替和枝の包容力は言うまでもない。水川あさみも女性としての生きづらさを素直に演じて嫌味がなかった。今回は水川あさみがメインだったと言っても良いくらいだ。女性が悩み、苦しんでいる一方で男性は本当にどうしようもない。それだけに「いつか望んだとき」のために努力する姿は尊い

 通奏低音と言えば清水靖晃の音楽がまさにそうだ。決して目立つことなく、さりげなく物語に寄り添って流れ続けている。そこに「せつないもの」が被さると感情は一気に高まっていく。youtubeにあった歌詞つきのカバーを聴いて納得した。単純な言葉が胸を打つ。そこに切ない思いが込められているからこそ、ここまで感情を揺さぶるのだろう。


【フル/歌詞】せつないもの CHARA 透明なゆりかご 主題歌 カバー/NAADA