ささやかな日常の記録

現在と過去のエンタメなど

ドラマ「アンナチュラル」第7話

イジメを扱った秀れた作品は多々あるが、素直には楽しめない。 多かれ少なかれ誰にも思い当たることがあるだろう。学生時代の消せない記憶。いじめたこと、いじめられたこと、それを傍観したこと。スクール・カーストは決してなくなることはない。

だから「アンナチュラル」がイジメをテーマにするのも自然なことだが、ネットを使った事件はあまりにも既視感がありすぎた。またかって思った視聴者も多かったことだろう。「殺人遊戯」というタイトルからも真相はすぐに分かってしまう。解剖するシーンもなく、UDIラボがまるでCSIのようだった。真相究明も単純で、ここにきて失速してしまったかのようにも思えた。

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だが、本当にそうだろうか。ありきたりな題材にこそ緻密な仕掛けが隠されている。冒頭で何気なく配られる「遠隔死亡診断」のガイドライン。誰もが興味なさそうで一瞥もしない。だが、そこに日本の法医学の現実がある。全国で法医学解剖医は170人程度しかいないと語られる。それで全ての遺体に対処できる訳がないのだ。ネットを使ったシステムも十分に現実的な対処になりうるのだ。

自分の住む地域では拠点病院に行くのに車で1時間かかる。高齢ドライバーの事故が社会問題化しているが、車がなくては生きられない暗い地方の現実がある。おそらく自分が不審死しても解剖されることはないだろう。それだけに、こうしたシステムの実現は願ってもないことだ。

そうした背景をさらりと描いているから、ネットでの検視に興味が持てる。果たしてネットで死因を究明することができるのか。その展開は実にスリリング。そしてミコトは答えを出す。法医学的見解では自殺だが、個人としての見解では「イジメという殺人」となる。

それにしても巧みな脚本だ。普通だったら解剖医が学校での事件現場に立ち会うなどあり得ない。それを予備校講師であるミコトの弟を介することで不自然さはなくなる。警察も前話で存在感を示した大倉孝二が来るところだが、やってきたのは螢雪次朗演じる少年課の刑事というのがリアルだ。ネット中継をしなければならなかった理由もある。普通だったら見過ごしてしまうところだ。トリックについては、小説の真似ということで十分だろう。

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そんなイジメの痛みを解剖医の目線から訴えかける。ナイフの刺し傷の痛みは想像できても、死斑の形状から痛みを想像するのは難しい。単なるアザでは、誰しもが当たり前のことだと思ってしまう。そこを想像できるかどうかがが、分かれ目になってくる。

仮に想像できたとしても、それが伝わるかどうかはまた別の問題である。結局ネットで対峙したミコトの思いは相手に伝わらなかった。回線を切ることによって、コミュニケーションは簡単に拒絶されてしまう。本当に救うためにはどうしたらいいのか、これも答えのない問いである。

そんなミコトが少年に語りかけるセリフが印象的だ。

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あなたが死んで何になるの。

あなたを苦しめた人の名前を遺書に残して、それが何。

彼らはきっと転校して名前を変えて新しい人生を生きていくの。

あなたの人生を奪ったことなんてすっかり忘れて生きていくの。

あなたが命を差し出しても、あなたの痛みは決して彼らに届かない。

それでも死ぬの?

あなたの人生はあなたのものだよ。

自殺のニュースに触れるたびに思うことだ。今でも繰り返されている暗い現実だ。

生きて欲しいという願いはなかなか届かない。ましてやネットでは尚更だ。

今回も中堂(井浦新)が大活躍。コミカルなところからシリアスなところまで変幻自在。

災害や事件で親しい人に死なれた人は罪悪感を覚えてしまう。それは例え自殺でもそうだ。

「僕だけが生きてていいのかな。」そんな問いに中堂が答える。 

死んだ奴は答えてくれない。この先も。

許されるように生きろ。

前回のブログで秀れたドラマは現実を引き寄せると書いた。それに付け加えるならば、秀れたドラマは現実を変えることができる。

自分を含めて、このドラマで法医学に興味を持った人は多いだろう。そんな法医学に携わる人が少ないという暗い現実を変えることはできないのか。獣医を増やすよりも大切なことではないかとさえ思った。ネットを使った「遠隔地死亡診断」も「遠隔地診療」も必要だろう。そうした議論のきっかけになり得るとさえ思う。

かつて山田太一作「男たちの旅路」というドラマがあった。そのシリーズの一本に「車輪の一歩」という回があった。車椅子の若者の現実を描いたドラマだ。このドラマを見て、確実に障害者の方を見る目が変わったのを覚えている。1979年に放映された古いドラマだが、何度でも再放送して欲しいほどだ。

まあ、そうしたことは置いておいても、ドラマとしてますます面白くなってきた。いよいよミコトと中堂が協力して事件に挑むことになりそうだ。本当に次週が待ちきれない。

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(追記)

 ドラマは映画とは違って1回見て終わりという方がほとんどだろう。自分もよほどのことがない限り続けて2回見ることがない。それが、この「アンナチュラル」というドラマで起こってしまった。あまりの密度の濃さに1回では消化しきれない。見終わって色々な思いが頭に浮かんで整理できなくなってしまう。

この段階でネットからはまったく情報は仕入れない。とにかく見た直後にブログを書いてみる。すると確認したいセリフが次々と出てくる。そして2回目を見て詳細をチェックしたうえで日時指定で投稿する。しばらく時間をおいてから、今度はPCで画像を取り込んで修正する。そうした、ちょっと面倒な手続きを踏んでいる。

それからネットでドラマの反響を見る。自分と同じような感想があれば嬉しく思い、違った見方があれば成程なって思う。自分の感想を文章化していればこそ、楽しめる。今後はもっとシンプルに投稿してみるのも良いのかもしれない。だいたい、そんな大層な内容ではないのだ。もし、yahooの新ブログを続けるとしたら、そうせざるを得なくなることだろう。

それにしてもドラマの反響はネット記事も含めて「イジメ」への言及がほとんど。やはりイジメの問題は身近で切実なのだろう。しかし、45分で描くには尺が足りない。どうしたって中途半端になってしまう。それでも、これだけの反響があるってことに連続ドラマの力を感じてしまう。何よりも野木亜紀子の脚本の力によるところが大きいのは間違いない。

こうしたテーマであれば、「ソロモンの偽証」や「告白」といった優れた作品がいくつもある。「リリーシュシュのすべて」「罪の余白」なんかもそうだ。ドラマでも例えば「相棒」にそんなエピソードがあったような気がする。最近になって見直した山田太一作「本当と嘘とテキーラ」というドラマもそうだった。

とにかくドラマでも映画でも話題となって考えることは良いことだと思う。色々な見方があって良い。それでも自分が気になったのはネットのあり方の方だった。「遠隔地死亡診断」はネットでも可能だった。でも自殺は止められなかった。それを思い止まらせたのは目の前に居た人から発せられた言葉だった。そこに強く共感してしまった。

SNSによるつながりを心底、肯定できないのはもう年だからなのかもしれない。未だにあの座間での事件がしこりのように残り続けている。ブログを読んで共感することは多いが、自らコメントを残すことはできない。「いいね」や「ナイス」なんてのも、上から目線のようでとても無理だ。自分ができないことを、人からやってもらうことはできないのでコメントは不可のままだ。 そんなことを考えることができたのも、このドラマのおかげである。

ちなみに先ほどのブログではあえて書かなかった市川実日子のシーン。自分のコートをそっとご遺体にかけてあげるところでもう涙腺崩壊だった。ネタバレをどうするか、その判断はいつも迷ってしまうところである。