先週の土曜日、BS4Kでシーズン7の「アダムに光が」の前後編が連続で放送されたが、残念ながら風雪により画面が乱れてしまい、保存版にできなかった。
「失われた光」の時もそうだったが、メアリーが活躍する回は現実でも波乱が起きやすい。今年になってアンコール放送されたシーズン3でも、一番見たかった「風の中の初恋」だけが大雪のため見られなかった。
この「アダムに光が」はストーリーとしては相当に無理があるが、メアリーが光る最後のエピソードだけに見逃せない。脚本・演出のマイケル・ランドンも、どのようにメアリーをドラマから退場させるか迷ったに違いない。その結果がアダムの光だったということだろう。
その光には視力が回復するという意味だけではなく、新たな希望を見つけたという意味も含まれている。それがアダムにとっては父親と同じ弁護士になるということになる。
かつて利己的な父親を嫌悪していたにもかかわらず、いきなり弁護士になりたいと言い出すのもどうかと思うが、そんなに簡単に知識を習得できるのかと思ってしまう。
それだけに、あまりにも(アダムにとって)ご都合主義的な展開が続くため、オルソン夫人のダイエットというエピソードも加えたのだろう。
そんな浮かれるアダムがただただ不快で、メアリーが哀れでならなかった。あの「海へのあこがれ」の感動的なクライマックスと同じようなシチュエーションと劇伴なのに、この違いは何なのだろう。そして、アダムがまだ24歳だったということに驚いてしまった。アルマンゾよりも年下ということだろうか。
試験会場で隣席した(三浪の)男の存在も都合が良すぎるが、これも奇跡の物語だと思えばいいのかもしれない。駅で暴漢に襲われた顛末もそうである。そもそもニトロで吹っ飛ばされて助かるだけでも奇跡的と言わざるを得ない。
そんなアダムに翻弄されてメアリーの感情も揺れ続けるが、最終的には夫の夢に寄り添うことを決断する。そんな夫と同じ光を見るために(To See the Light)決意したメアリーの行動こそがクライマックスに相応しい。規則について次のように問いかける。
思いやりにも配慮にも欠ける規則は悪い規則じゃありませんか?
悪い規則があれば変えるべきじゃありませんか?
この問いはコロナ禍の今でも意味を持つ。受験については柔軟な対応がとられたようだが、感染者に対する対応は十分とは言えない。それ以外にも身近な法律や規則で思い当たることは人それぞれに少なからずあることだろう。
しかし、なかなか思ったようには変えられないのが現実だけに、ドラマとはいえメアリーが規則を変えてアダムを救った姿に勇気づけられる思いである。
勇気づけられると言えば、ジョン・レノンの歌を聴くこともそうである。たまたま昨夜、BSのアナザーストーリーズでは「イマジン」が放送されていた。
1980年12月8日のことは個人的にも忘れられないが、この日に「アダムに光が」の後編がアメリカで初放送されている。アメリカのサイトを見ると、途中でドラマが中断されてニュースになったとのコメントがあったが、本当だろうか。
レノンが自宅玄関前で射殺されたのは夜の10時50分のことである。これは東部時間だから、西部時間だと7時50分ということで可能性はある。
そうなると中断された後どうなったのか気になるが、アダムが駅で暴漢に襲われたシーンがリアルに思えてくる。
もしかしたら、ここで再び光を失ってしまうという展開も考えられたかもしれないし、最悪の場合としてメアリーが若くして未亡人になったかもしれない。それはそれで見たかったような気もするが、メリッサ・スーの降板が決まっていたとすれば、これがベストのストーリーだったのかもしれない。
シーズン8の「雨の中の事件」でメアリーの元カレであるジョンのエピソードが作られるが、この時のレノンの影響があったのかもしれない。
ちなみに自分がこのニュースを初めて知ったのが12月9日(火)の夕方、FMを聴いていた時だったと思う。期末試験で早めに帰宅していたのだろう。当時はもうレコードでビートルズは聴いていたが、レノンのソロまでは手が伸びていなかった。この時から、自分にとっても「イマジン」は特別な歌になった。
なお、試験会場として使われた場所は、南カリフォルニア大学(USC)のキャンパスでロケされたとのこと。この大学の卒業生にはマイケル・ランドンだけでなく、ジョージ・ルーカス、ロバート・ゼメキスなどの監督や、ジェリー・ゴールドスミス、ジェームズ・ホーナーなどの作曲家がいる。
それから個人的にはチャールズとメアリーのツーショットが多く見られただけでも満足であった。ランドンもできるだけ多くチャールズとしてメアリーとの時間を過ごしたかったのかもしれない。