今年は40年前の1986年のことを書きたいと思っていたのに、もう10月も終わりである。そんな時、小林信彦の訃報を知った。小林は自分にとって最も多くの作品を読んだ作家であり、唯一サインを貰うことができた人でもある。1986年7月、試用期間を経て晴れて正社員になることができた当時の日記に次のような記述がある。
1986年7月2日(水)
早速、振休を取った。午後から久々に新宿に出て、映画「ロッキー4」鑑賞。それから紀伊国屋書店で、偶然に小林信彦のサイン会に居合わせ、「僕たちの好きな戦争」を購入してサインをしてもらい、実にラッキーだった。

当時は文庫で「唐獅子株式会社」シリーズを読んで大笑いしていたが、「僕たちの好きな戦争」は純文学書き下ろし特別作品ということで感銘を受けたものである。それから朝日新聞で連載していた「極東セレナーデ」を日々読んでいたのもこの頃である。
1988年8月29日(月)
小林信彦「極東セレナーデ」読破。また読書意欲がわいてきた。

そして平成になってハードカバーで「世間知らず」(後に「背中あわせのハートブレイク」と改題)を読んだ。自分にとっては80年代を総決算するきっかけになった作品だった。
1989年1月17日(火)
今日もまた映画を観に行くタイミングを逸してしまった。何しろ観たい映画は沢山あるのに優先順位が決まらず、つい音楽に流れてしまう。しかし、今日は小林信彦の「世間知らず」を一気に読んで、すっかり満足してしまった。こういう青春小説を読むと素直に胸が痛む。映画とヒットチャートにしか関心を示さない世間知らずで優柔不断な主人公にすっかり感情移入してしまった。しかし、類似しているところはあるとはいえ時代背景も環境も全く異なる訳で、そのあたりが実に生き生きとしていて羨ましかった。そして、戦後から朝鮮戦争に至る時代背景をもっと知りたくなった。主人公が最後まで高校時代を引きずったように、自分の原点もあの時代にあるような気がする。高校入学からもう少しで10年である。この10年間の意味をもう一度かみしめて総決算しておく必要があるかもしれない。次なる10年のためにも・・・。

そんなこともあってこの頃はしっかりと日記を書いていた。
1989年11月12日(日)
先週は色々な出来事があった。3日の文化の日に部屋の模様替えをして、翌土曜日はNさんと待ち合わせて一緒に過ごした。眠れぬ長い夜をを経て、日曜の夜はデビー・ギブソンのコンサートに出かけた。その興奮もおさまらぬ翌月曜の夜にもまた武道館に出かけてリンゴ・スターのコンサートを楽しんだ。さすがに火曜日には疲れがどっと出て、翌水曜の朝は頭痛がひどく初の半休を取った。
木曜の夜は丸の内ピカデリー2で「ラッフルズ・ホテル」を観た。評判通りの凡作で、怒りすら覚えてしまった。藤谷美和子の魅力が全然いかされていなかった。「それから」の彼女の美しさが懐かしく想起された。
その彼女の相手役をやった松田優作が6日に亡くなった。「ブラック・レイン」での迫真の演技が生々しく残っているだけに信じられなかった。
金曜日の夜に「読書する女」のサントラCDを買ったら、手元には3,000円円しか残っていなかった。
世界情勢においては東西陣営の象徴たるベルリンの壁が撤去されたという歴史的な出来事があった。これから共産主義の国がどうなっていくのか中国ともども興味があるところである。
映画「ラッフルズ・ホテル」を監督した村上龍も亡くなってしまった。まさか小林と同じ日に訃報が伝えられるとは思ってもみなかった。残念ながら監督としての実力は発揮できなかったようである。ちなみに脚本は野沢尚なので、映画の舞台裏には興味がある。
1989年12月2日(土)
午後、小林信彦の新作「イエスタデイ・ワンスモア」を読んだ。日本でもあの「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と同じノリの話を展開することができるとは思わなかった。自分が生まれる前の1959年の東京の描写はなかなか新鮮で、同時代のポップ文学としては最高に面白かった。

バブル期の頃の日記は本当に面白い。毎日のように映画やコンサートに出かけ、読書もしっかりとしている。この頃にブログがあったらネタには事欠かなかっただろう。
1990年6月24日(日)
早いもので6月も今週で終わり。来週からはもう7月である。1990年も半分終わってしまう訳だ。小林信彦の「60年代日記」を読み、また日記を書きたくなった。20世紀最後の10年である90年代は、小林にとっての60年代と同じような意味合いを持つはずだ。もしかしたら青春期の最後かもしれない貴重な日々を何とか自分なりに定着させておきたい。
先週はなんと5日間連続残業という記録を作ってしまった。月火と宣伝会議の資料作り、水木金と新原稿のコピー制作で、金曜は10時半までかかってしまった。まさに仕事中心の日々であったが、こういうのもまんざら悪くないと思った。
先々週の金曜日にNさんから電話があり、延々と1時間半話し続け、結局かみ合わないまま訣別してしまった。彼女に対してここまで張り合ったのは最初にして最後になってしまった。かつては彼女からの電話を切望していたのに、それが重荷になってしまうとは思いもよらなかった。そんな訳で仕事に忙殺されていた方が今の自分には好都合なのだ。
1992年6月7日(日)
梅雨入りとなった今朝の目覚めは最悪だった。耳が聴こえないうえに頭は重く、吐き気までするという状態で、午前中いっぱい苦しんだ。そろそろロックを騒音に感じてしまう年齢になってきたのかもしれず、こうしたハードなコンサートは肉体的に限界かもしれない。未だ難聴状態は続いており、少々心配である。
それでも音楽に関する嗜好はますます多様化して、このところ毎週CDを購入してはその音世界にどっぷりと浸っている。同じことが映画にも言え、このところ週に最低3日は劇場に足を運んでいる。昨日などは池袋の文芸坐2で「12人の優しい日本人」を観た後、銀座の並木座にて「姿三四郎」を立ち見までしてしまった。
そのうえシネサロンにて前売りを3枚(4,500円)も購入してしまった。今や映画は前売りを買っても1,400円で、中には当日2,000円で前売りが1,700円なんてものもある。まったく高いものではあるが、それでも観たい映画が次々と公開されるのだから仕方がない。今月になってからも1日にオリバー・ストーンの「JFK」を丸の内ルーブルにて当日2,000円のところ1,000円で観て、3日には新宿武蔵野館のレイトショーで「ヘンリー」を1,700円で観た。それぞれ事実をドキュメンタリー・タッチで描き、圧倒的な迫力あるフィクションになっており、見事であった。
こうも連日、濃密な映画体験をしていると、とても一本一本について書くことができずに、ただ見っぱなしになっているのが残念でならない。ただ、見ればいいというものではないが、こうも見たいものが多いと、とりあえずは見ないことには始まらないという訳である。
先週から小林信彦の1983年から1992年にかけてのコラムを読み続け、氏のような簡潔で的を得た文章が書けないものかと、つくづく思った。けっこう共通体験も多く、その時代を想起させてくれる。黒澤明に関するものなど、まさにタイムリーだった。
この頃から小林のコラムに影響を受けて日記を書いているのがよく分かる。当時からキネ旬のコラムや週刊文春の連載を読んでいたのも大きかったようである。























