ささやかな日常の記録

現在と過去のエンタメなど

アンナチュラルなブログ

昨夜、投稿した「アンナチュラル」の記事。今朝、確認したらアクセス数がゼロ。なんだか凄い。

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念のためカテゴリーを見てみたら記事が見当たらない。「アンナチュラル」で検索しても出てこない。

これまでの習慣で非公開にしたかとも思ったが、すべて公開になっている。なんだか妙な感じだ。YahooブログのA. I が勝手に仕組んだ企みだろうか。まさにアンナチュラルなブログだ。

 もう一度、投稿してみようかとも思ったが面倒くさい。人によっては訪問者を増やすために同じ記事を延々とループしている。その情熱は凄いと思うが、自分には真似できない。

このブログを始めたのも、自分のための備忘録という目的からだ。元々は自分本位で公開しようとは思っていなかった。それなのに、そうもいかなくなってしまった。新しいブログは全公開がデフォになる。移行の際に過去記事がどうなってしまうのか不安になった。

そのために恥ずかしながら今月から記事を公開で書き始めた。すると不思議なことに読者という存在を意識してしまう。たかだか数人だけだとしても誠実であらねばと思ってしまう。書き方も変わる。これまでは日常のあれこれを一つの記事に雑多に盛り込んでいた。要は日記と同じである。それが、一つの記事にはワンテーマを意識するようになった。何かしら益になることを書きたいと思った。

すると記事を書くのに時間がかかるし、色々と考える。面倒くさいけど、完成するとそれなりの満足感もある。そうなると一人でも多くの方に読んでもらいたくなる。まさに本末転倒な事態となってしまった訳である。

今回の件は、公開したけれどカテゴリー等に反映されないという事象である。つまり一見さんには記事の存在を知る由がないということ。これでは知名度のないブログではどうしようもない。まあ、自分には読めるのだから、それで良いのかもしれない。

ただ心配なのは、この逆のパターンだ。公開する意思がないのに、勝手に公開されてしまう。個人情報の流失が起こらないとも限らない。そのための過去記事の見直しと公開作業が必要になってくる。個人的なことは知られたくはないが、消失してしまうのは困るのだ。新ブログの移行の際に非公開記事は下書きになってしまうとのこと。これではどうなってしまうのか分からない。本当に面倒くさい。

たかだか数年で、こんなに変化してしまうデジタルの世界。かつてノート・パソコンに書きためていた日記は、ハードディスクのクラッシュとともに全て消えてしまった。愚かにもバックアップは取っていなかった。そのためブログなら安心かと思って始めたら、これだ。

なんだかんだ言っても紙媒体が一番信用できる。今だに小学生の頃の日記が読める。ただ死んだ後にも残るのが厄介なところで、そのためのデジタル化だった。遠い将来、何もない部屋で過去の日記を読むことができれば満足である。