ささやかな日常の記録

現在と過去のエンタメなど

「シェルブールの雨傘」と服部隆之

春の陽気。

今日の「題名のない音楽会」は、もうすぐ60周年ということで「私の音楽人生に影響を与えた名演の音楽会」と題した内容だった。その中でも服部隆之によって紹介された2007年放送のミシェル・ルグラン羽田健太郎の共演による「シェルブールの雨傘」の演奏は個人的にも忘れられないステージだったので、もう一度見ることができてラッキーだった。

とにかく「シェルブールの雨傘」は映画も音楽も大好きで、このメロディを聴くと条件反射的に涙が出てしまう。それは服部も同じようで、その演奏を見ながら涙ぐむ表情が印象的だった。

そんな訳でこの番組は永久保存版になってしまったが、その前にNHKの「名曲アルバム」と「2355」でも「シェルブールの雨傘」が流れていた。そこで気になったのがカトリーヌ・ドヌーヴが演じたヒロインの名前である。相手役のギイという名前は覚えていたが、肝心のヒロインの名前が出てこなかった。

正解はジュヌヴィエーヴで、さすがにこれは覚えられないと思ったが、意外に好きな映画でも役名までは覚えてないと改めて実感したところである。

サントラはずいぶんと昔(1996年頃)に2枚組完全版を輸入盤で購入していたが、今月末に日本盤が再発されるようである。

それにしても最近は服部隆之をテレビでよく見る。朝ドラ「ブギウギ」関連だけでなく、先週の「題名のない音楽会」には 映画ドラえもんのび太の地球交響楽」のステージにも芳根京子と共に出演しており、これも保存版になってしまった。

今は「ブギウギ」関連の音楽番組が多く放送されているので、とりあえず録画をしているが保存するかどうか迷っているところである。服部良一の歌では「東京ブギウギ」よりも「ラッパと娘」の方が好みで、ドラマでもこのエピソードは録画を残しているが、それ以外の歌まで残すとなるとけっこうな時間になる。人生の残り時間を考えて取捨選択することも悩ましいものである。

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ドラマ「お別れホスピタル」

2月に全4回で放送されたドラマ「お別れホスピタル」について書きたかったけど、なかなか書くことができなかった。ドラマではあっても、まるでドキュメンタリーのようなリアルな描写に圧倒されてしまった。あの「透明なゆりかご」にあったファンタジーは影を潜め、自らの現実との距離感が近すぎたせいもある。

ドラマ「透明なゆりかご」が初放送された2018年はまだYahoo!ブログが存在しており、ほとんど誰にも読まれることもない記事を書き続けていた。それが今、当ブログでは「大草原の小さな家」の記事に次いで読まれるようになっている。1月に再放送されてからはアクセスも増えて、なんだかこそばゆい感じでもあった。

それで正直なところ満足してしまっていたところがある。もう、あの時のような気持ちでブログを書き続けることはできないけど、何かしら書けるものを書きたいと思っている。

そんな折、BS4Kで5.1サラウンド版での「お別れホスピタル」の放送が始まったので改めて初回を見てみた。さすがに4Kの映像は美しく、冒頭の夜明けの海岸風景がより鮮明になり、古田新太演じる男と岸井ゆきの演じる看護師との出会いのシーンの印象が強まった。タバコを吸うというささやかな嗜好が生きがいにもなるということ。それが奪われた時に人はどうなってしまうのか考えざるを得なかった。

昭和のドラマを見るとタバコを吸うシーンはいくらでも出てくる。あの「不適切にもほどがある!」にもあったが、古田新太が酸素吸入療法中という設定だったので問題となった。ドラマの中でもおいそれとはタバコを吸うことはできないということ。

かつて自分もタバコを吸っていた時がある。職場では煙が蔓延していてタバコは大嫌いだったが、接待で飲む機会が多かったので間を持たすためにタバコは必須だった。煙は吸い込まずに吐くだけのカッコつけだった。それでも、そんな雰囲気に酔っていたところはある。それだけにタバコを吸う人をそれだけで毛嫌いすることはなかった。

同じ煙でも焼き鳥の煙は大好きだった。ドラマで描かれた医師役の松山ケンイチ岸井ゆきのが居酒屋で語り合うシーンは大好きだ。誰かと話すことで救われることもある。焼き鳥は自分も松山のように串から外して食べるタイプだった。今でも注射の針は苦手なので、病院にはなるべく近づきたくないのに行かざるを得ないのが辛いところ。

病室のシーンでは最初の丘みつ子松金よね子、白川和子が演じる患者がカントリーマアムを想起させるマアムちゃんというお菓子を食べるシーンが印象的だ。そこにCharaの「小さなお家」のメロディが流れるとぐっと感情が揺さぶられてしまう。ここから思い出されるのは当然「大草原の小さな家」という訳で、カントリーマアムのCMに出演したカレン・グラッスルと日色ともゑは丘たちより5歳ほど年上となる。

その「大草原」のドラマでも老いの哀しみは度々描かれたが、ここにはより切実な日本の家族の現実が描かれている。「大草原」が描き続けた家族が一番という価値観も揺らいでいる。

初回のタイトルは「死ぬってなんだろう」で少々ホラーテイストの描写もあった。まるで黒沢清の映画のように病室のカーテンが揺れるシーンは不穏な感情を呼び覚ます。そこには生と死が隣り合う世界があり、そこに流れる清水靖晃の劇伴が深い余韻を残していく。

2話のタイトルは「愛は残酷」。永年連れ添った夫婦にも人には言えない感情がある。高橋惠子演じる妻が最期に夫の耳元で囁く言葉はホラーである。言葉は人を殺すこともある。ラストで語られたモノローグが刺さる。

人は愛に生きる ・・・のかもしれない

でもそれは美しいけど残酷で

最後はどっちも抱えていくしかないんだ

ミルバの歌声に魅せられて

今朝は晴れたが放射冷却による氷点下の冷え込みで、とにかく寒かった。灯油が残り少なくなっているので、残量を睨みながらストーブを点けている。

今日はスカパーの無料放送日。ただでさえ録画が溜まっているのに一応はチェックするのが習慣になっている。今月はイタリアの女性歌手であるミルバ(Milva)のライヴ(1978)があったので見ることにした。

リリー・マルレーンで始まって、リリー・マルレーンで終わったが、その歌から想起されたのはマレーネ・ディートリッヒということで、映画「嘆きの天使」における場末のキャバレーのような雰囲気と、その力強い歌声に魅せられた。

日本ではカンツォーネの女王として知られており、「ウナ・セラ・ディ東京」のカバーが有名である。この歌の作曲は宮川泰で、編曲が東海林修だった。たまたま先月は松本零士の没後1年ということで二人が音楽を担当した「さらば宇宙戦艦ヤマト」と「さよなら銀河鉄道999」を見たばかりであった。


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個人的にはミルバがヴァンゲリスエンニオ・モリコーネと組んだアルバムが大好きで、今でも愛聴盤になっている。


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不適切にもほどがある!

3月になったのに、しっかりと雪が降って30センチほどの積雪となった。

昨夜のドラマ「不適切にもほどがある!」を見てから何か書きたいなって思ったけど、例によって何も書けないままである。

ネットには溢れんばかりに感想が飛び交っているが、それらを読むだけでも大変で自分の感想などどうでも良くなってきた。そもそも独自の目新しい視点など何もないので、無理に書く必要もない。それでも書きたいと思ったという事実だけは書いておいても良いかもしれない。

先週の第5話から物語のテイストが変わったということは誰しも感じていることだと思うけど、まさかここまで泣かされるストーリーに変質するとは思ってもみなかった。その要因には阪神大震災があるのは間違いないが、そこには亡くなった人にもう一度会いたいという普遍的なテーマがある。

令和から昭和に戻った主人公が食卓ですき焼きを食べるシーンを見ていて、映画「異人たちとの夏」を思い出した。最近リメイクもされた原作は山田太一で、これを市川森一が脚色して大林宣彦が監督した映画は自分にとって忘れられない映画の一つである。

ドラマでは古田新太演じる男が河合優実演じる若き妻と再会するシーンが描かれたが、そこでの古田のリアクションが可笑しくも切なくて胸が痛くなってしまった。同じような感情をドラマ「お別れホスピタル」でも覚えたが、まさに古田の存在感があってこそだと思った。

そして最後のミュージカルでは南沙織の「17歳」が想起されるメロディに乗って、17歳の時にハマったドラマについて歌われた。脚本家を演じた池田成志で思い出すのは1992年に見た「熱海殺人事件~ザ・ロンゲスト・スプリング~」であるが、個人的に17歳の時にハマったドラマは山田太一作の「獅子の時代」である。

その翌年にはあの「想い出づくり。」が放送されて夢中になったものである。最近もBSで再放送されたので見直したが、今見るとそれこそ不適切にもほどがある表現のオンパレードであったが、全く古びた感じはしなかった。とにかく森昌子古手川祐子、田中裕子が魅力的だったが、今だったら小芝風花、生見愛瑠、そして河合優実あたりがハマりそうである。

「吉里吉里人」を読んだ頃

朝から雪。当たり前のように寒い。思考もフリーズしたままで、怠惰な生活が続いている。何かを書きたいという思いはあれども、なかなか言葉が出てこない。

テレビで大昔に放送された大江健三郎井上ひさしが母校の学校で授業をするという番組を見た。大江は中学生に対して「書きながら考える」ことが大切だと教えていた。井上は言葉をたくさん覚えることの重要さを小学生に優しく伝えていた。

この番組が放送された1980年代には二人の小説は文庫でよく読んだが、今では忘却の彼方である。井上の「吉里吉里人」などは単行本を買って夢中で読んだが、今ではそのボリュームに圧倒されて読み直す気力もないのが情けない。

この本は1982年の3月に読んで、しっかりと感想も書いている。

上下二段で八百ページにに及ぶ本作を読破して思うことは、読み切ったことに対する満足感である。量もさることながら、その質にも驚嘆させられた。文学的価値よりも、よくぞここまで小説の面白さを追求したという驚き。

先に読んだ「偽原始人」にも通ずる遊びの精神と現代社会に対する痛烈な皮肉はまさに圧巻だ。東北の寒村が日本から独立分離した状況をわずか2日間という時間の流れの中で克明に描写することによって、経済、法律、医学、文学といった専門分野を論ずるあたり舌を巻かざるを得ない。

まさに小説のあらゆるエッセンスを詰め込んで凝縮してあるのだ。それ故にそれらの要素を論じて感想を述べることなどできそうもない。それでも日本の社会制度が不条理であることは素直に納得することができた。このように面白いだけでなく、知的欲求をも満たしてくれた小説でもあった。

まさに「少年老い易く学成り難し」を痛感している。番組の中で作家になりたいと目を輝かしていた少女は今どうしているだろうと思った。