ささやかな日常の記録

現在と過去のエンタメなど

「吉里吉里人」を読んだ頃

朝から雪。当たり前のように寒い。思考もフリーズしたままで、怠惰な生活が続いている。何かを書きたいという思いはあれども、なかなか言葉が出てこない。

テレビで大昔に放送された大江健三郎井上ひさしが母校の学校で授業をするという番組を見た。大江は中学生に対して「書きながら考える」ことが大切だと教えていた。井上は言葉をたくさん覚えることの重要さを小学生に優しく伝えていた。

この番組が放送された1980年代には二人の小説は文庫でよく読んだが、今では忘却の彼方である。井上の「吉里吉里人」などは単行本を買って夢中で読んだが、今ではそのボリュームに圧倒されて読み直す気力もないのが情けない。

この本は1982年の3月に読んで、しっかりと感想も書いている。

上下二段で八百ページにに及ぶ本作を読破して思うことは、読み切ったことに対する満足感である。量もさることながら、その質にも驚嘆させられた。文学的価値よりも、よくぞここまで小説の面白さを追求したという驚き。

先に読んだ「偽原始人」にも通ずる遊びの精神と現代社会に対する痛烈な皮肉はまさに圧巻だ。東北の寒村が日本から独立分離した状況をわずか2日間という時間の流れの中で克明に描写することによって、経済、法律、医学、文学といった専門分野を論ずるあたり舌を巻かざるを得ない。

まさに小説のあらゆるエッセンスを詰め込んで凝縮してあるのだ。それ故にそれらの要素を論じて感想を述べることなどできそうもない。それでも日本の社会制度が不条理であることは素直に納得することができた。このように面白いだけでなく、知的欲求をも満たしてくれた小説でもあった。

まさに「少年老い易く学成り難し」を痛感している。番組の中で作家になりたいと目を輝かしていた少女は今どうしているだろうと思った。